ここは十二国の中でも最も東に位置する国、慶という名の肥沃な土の香りのする国。
何年か前、胎果の少女が国王の座に着いた、稀有な国。
麒麟である台輔は景麒と呼ばれる。
胎果の少女王は、字を赤子と呼ばれる。
その豊かに流れる赤い髪、きらきら光る緑の瞳。屈託の無い笑顔。
性格は生真面目に過ぎるところがあるが、台輔といい勝負かもしれない。
「一人一人が自分自身の王に」と望んだ初勅で、伏礼叩頭を廃止してしまった、景王赤子。
そんな彼女が愛してやまない花があった。それが、桜。
慶国もやっと復興の兆しが見えてきた今日この頃。また、桜の季節が巡ってくる。「赤子は桜が好き。」という噂は、意外に市井にも広がっていた。
主上がお喜びになるなら、と、新しく庭を作ったり、街路樹を植えたりするときには、必ず桜が候補に挙がり、そこで植えられる樹木の幾本かは、桜になっていったのだ。
当然、この季節になると堯天はあちこちに、あわいピンク色の雲が広がったようになる。
それは、雲海の上から眺めても、なかなかきれいで、絵心をそそるような風景であった。
もちろん、予算に余裕があるときは、金波宮内の園林も整備され、赤子の希望通りに桜も植えられたのだ。
そんな、園林の一郭を、昼餉の後、陽子は散策をしていた。
ここは、正寝からは少し離れている、大学の学舎の裏手に当たる園林だ。
今日は朝議がことのほか早く終了したので、午後の執務時間まで、まだいくらか時間が空いていた。早咲きの桜が見られると聞いて、陽子は景麒の小言に会わないように、そっと使令に耳打ちして、ここまで連れてきてもらった。
「桜といっても、色々あるのだなあ。」
いつもの黒い官服を着込み、まだ冷たさが残る春の風を受けながら、陽子は独り言を言う。
今は、白っぽい小さな花をつける桜が満開である。もう少し経つと、文字通り桜色をした花や、少し赤っぽい花、八重咲き、枝垂れ咲き、新芽の葉が赤色のさくらなど、たくさんの桜が満開になる。
「今年も、平和な年になってほしい。でも、まだ色々ありそうだな。慶国で皆さんを招いて心置きなく桜の宴を開くには、後どのくらいかかるのだろう。」
自身の政務を省みて、そんな思いもあった。芽の膨らむ、多種の桜を見上げながら。陽子は、ふっとため息を漏らした。
そんなときである。美しい音色が響いてきたのは。
「何の音?」
このころはまだ、金波宮内で楽曲が奏でられる機会は少なかった。
楽師を雇うことはおろか、呼ぶことさえもなかなか許されない状況であったのだ。
陽子は、自分が楽曲を楽しむことよりは、国として安定した状態に少しでも早く近づけようと、頭と予算を使っていた。そして、それは実現しつつあったのだ。
この、園林のどこかで、弾いているに違いないのだが、その緩やかな音色は、たくさんある木々にこだまするのか、弾いている場所を特定できない。
その美しい音に呼応するかのように、小さめの桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。
その音色は、蓬莱で言うところのヴァイオリンが、いくらかこぶしをまわすような、そんな音色だった。
はかなげで、狂おしい、しかし心を揺さぶられる楽曲であった。
まだ、練習中なのであろう、ときどきその音色がやみ、少し前の部分が繰り返されたりするので、陽子は微笑んだ。
桜の多い、この園林の向こう側に、どうやらその楽器を奏している者の姿が見えた。
蓬莱で言う三味線のような楽器を立てて、ヴァイオリンの弓に当たるようなもので、弦を擦って音を出しているようである。
陽子は、近づいて楽器の説明をしてもらおうかどうしようかしばらく思案していたが、やがて、
「まあ、いいか。」
と言って、ところどころちいさな桜が咲いている園林を横切ろうとした。
「いいえ、いけません。」
思いもかけず力強い手で、両肩を押さえられてしまった。
「もう、午後の執務のお時間でございますよ。」
そういったのは、慶国の誇る百官の長、冢宰を務める浩瀚であった。
「おい、後ろから声をかけるな! ああびっくりした。」
陽子は、少しぐらいなら遅れてもいいやという後ろめたい希望を見透かされてしまったようで、どきどきしていた。
「これは、失礼いたしました。」
そういって浩瀚は陽子の前に回り片膝をつく。
陽子は尚いっそう警戒した。
浩瀚がこのような姿勢をするときは、決まってお小言が多いのだ。
景麒と違ってこいつに小言を言われると、後が怖いからな。
微妙な、主の表情の変化を読み取って、浩瀚はくすりと笑みを漏らし、
「主上に早々に見ていただきたい案件があったものですから、こちらまで来てしまいました。お楽しみのところを申し訳ございません。」
と、微笑みながら陽子に告げた。
浩瀚は、心配性の台輔が、仁重殿に執務をとりに向かうとき、「急ぎの案件があるので主上を探していただけないか」と頼まれたのだ。
陽子も、浩瀚に責められるわけではなさそうだとほっとすると、生真面目な顔を彼に向けた。
「いや、いいんだ。浩瀚に止めてもらわなければ、確かに午後の執務には大幅に遅刻していたと思う。申し訳ない。」
素直にあやまる陽子を、浩瀚はまぶしそうに見上げた。
「主上は、胡琴の音色をお楽しみでしたか?」
「ああ、あれは胡琴という楽器なの?よく考えると音楽を聴きたいなんて、登極してから思った記憶が無いんだ。もともと嫌いじゃないんだけどね。今日は膨らんだ桜の花の芽に誘われて、気持ちがいいから気づいたのかな。学生かなあ?」
「左様でございますね。今堯天ではやっております桜の歌かもしれません。」
「へえ、桜の歌があるの?」
「はい、主上が桜をお好きだと言うことは、あまねく知れ渡っているようでございます。この時期になりますと、いくつかの楽曲が披露され、美しく覚えやすいものが広まっていくようでございますよ。」
「お前、良く知っているな。」
陽子は感心していた。
仕事の量から言えば、この国の冢宰ほど激務をこなしている官吏はいないだろう。・・と、思われるのだが、まったくそんな風を見せずに、こうして主の気まぐれに付き合ったりすることもある。
それなのに、何時の間に市井のことまで調べているんだろう。
涼しげな冢宰の顔を覗き込むと、浩瀚の手がすいっと陽子の髪に触れた。
陽子は、どきっとした。
浩瀚の白くて長い指が自分の方へ伸びてきて、いったい何をされるんだろうと思ったのだ。
実際何もされないのだが、そうして、浩瀚の指は陽子のくくった髪についた、小さな桜の花びらをつまみ取っていく。
「まだ、枝ばかりが目立ちますが、もう少し経つとこちらも桜色に染まるでしょうね。」
「うん、そうだね。楽しみにしている。もう、正寝にもどるよ。浩瀚も一緒にどう?」
「よろしいのですか?」
「大丈夫だろう?ねえ、驃騎?」
「是」
と言う低い声が影の中から聞こえてきた。
二人と一匹は、その、いかめしい姿の使令にまたがり、あわただしく正寝へと戻っていったのだ。
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