数日後、常世としては恐ろしく早く、文の返事が届いた。太師の官邸で、鈴と祥瓊は喜んでその文を紐解いたのであった。
時候の挨拶と、みなの健康を気遣う文章が途切れたあたりで、桜の説明になっていたが、
「この状況を説明するには、蓬莱の言葉を用いませんと、小生のような凡夫には説明できません。幸いにも、景王は胎果でいらっしゃるので、読んでいただく事は可能かと存じます。」
と、したためてあったその後には、蓬莱の文字がずらっと並べて書かれていた。
鈴は、ひらがなはだいたい読めるのだが、漢字のほうは知識が怪しいと言う。
実際読んでみたのだが、どうしても肝心なところになると、意味が取れないのだ。
太師を含めて、その場にいた者は、陽子には内緒でその桜のことを調べて、あわよくばソメイヨシノという桜を慶国でも栽培して、陽子を喜ばせてあげよう・・などと考えていたのだが、どうやら、びっくりさせるのはお預けになりそうだった。
正寝で執務をしていた陽子は、その話を聞いて驚いた。
「え?みんな私に内緒で、そんなことをしていたのか。気持ちはとてもうれしいけど、いいんだよ、たかが桜なんだから。」
とはいえ、陽子はうれしそうである。
「まあ、それだけ金波宮も平和になったと言うことだよね。へえ、壁老師(へきせんせい)は、お元気なんだ。良かった。どれどれ・・・。」
そういって、久しぶりに読む蓬莱文字は、陽子の頭の中に、ほんのり知識の花びらを舞いちらすようだった。
以下、手紙の蓬莱文字の部分について、概略だが記しておきたい。
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私が、学生であったとき、まだ専科の授業ではなく、教養部の一般教養を学んでいたころでした。
生物の教授で、有名な方が講義を開いておりました。
その人は、富士火山帯に属する特有の植物を研究していらっしゃいました。
特に、環境に合わせて植物がどのように適応していったかを、当時もてはやされた、遺伝学の見地から研究されておりました。
その教授が、ソメイヨシノの発祥について、研究されていたのです。
その研究の結果によりますと、ソメイヨシノという桜は、江戸時代、江戸に住んでいた植木屋が、偶然かもしくは人工か定かではないのですが、発見した、雑種なのだそうです。
たしか、大島桜と江戸彼岸桜が交配した結果できた雑種だったと記憶しています。
ソメイヨシノの遺伝情報を分析し、色々な桜の交配実験をして、その先生が発見されたとのことでした。
ソメイヨシノは、雑種なので、不稔性なのです。
つまり、種ができません。
景王様が里木に願っても、種の無いものは、里木の実にはなりがたいのでしょう。
流石に天帝も、その枝にならせることが、おできにならなかったのかもしれません。
蓬莱にあるソメイヨシノはすべて同じもの、クローンなのだそうです。
そのせいでしょうか、大変病気にも弱く、樹木としての寿命が短いのだそうです。
そのほかの桜が、何百年と生きるものがあると言うのに、ソメイヨシノは、多くが60年ほどで枯れてしまうのだそうです。
しかしながら、その花の色、そして花のつき具合の美しさ。
花びらが一枚ずつ落ちるちりぎわの美しさ。
その美しさを、人は求めたのでしょう。
はじめはたった一本だった雑種の桜が、人の手を伝わり、日本全国に広まるのに、そう長い時間はかからなかったようです。
私が学生だったころは、多くの学校にこのソメイヨシノが植えられ、春には満開の桜が、新入生達を祝ったものでした。
増やすためには、接木か挿し木でないと、だめだとか。
常世では手にはいらないかもしれませんね。
景王様には誠に申し訳ございません。私の知識は、ソメイヨシノを入手するには、お役には立たないと思います。
せっかく、文までいただきながら、残念でございます。
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「ふうん、そうだったんだ。」
最後まで読みきった陽子は、感心したように淡いため息を漏らしていた。
周りで聞いていた、鈴、祥瓊、遠甫は、ときどき聞きなれない言葉が出てきたものの、ソメイヨシノという桜は、種ができないので、里木には実としてはならないのだろう、と言うことはわかった。
「そういえば、ソメイヨシノにはさくらんぼができないんだ。」
「あら、実のならない桜なんてあるの?」
祥瓊が不思議そうに陽子にたずねる。
「うん。いや、むしろ私が知っている桜は、ほとんど実のならないものだったんだ。」
「私も、蓬莱で小さかったころ、村で桜は見たことがあるけれど、花の後にはさくらんぼがなったわ。食べるものが何も無かったから、よく桜の木の下へ行ってとっては食べたのよ。」
鈴にとってははるか昔のことだったのだろう、思い出すのもたいへんだわ、とくすりと笑った。
「陽子が気に入った桜じゃ。常世にもほしいものじゃが、簡単には手に入らないようじゃの。」
「もういいですよ、太師。常世の桜だってとてもきれいなのですから。私のわがままだったんです。これから次々にたくさんの種類の桜が咲きますから、その美しさを楽しみたい。」
「そうじゃな、それが良かろう。」
「ふふ、みんなありがとう。そうだ、太師、ついでといっては申し訳ないのですが、この案件について少し教えていただきたいところがあるのですが・・・・。」
鈴と祥瓊は、がっかりして顔を見合わせたが、当の陽子が、もう政務にもどろうとしているので、彼女達も肩をすくめて、自分たちの仕事に戻っていったのだ。
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壁落人が蓬莱の東大にいたころ、ちょうど、「竹中要(よう)」という先生が桜の研究をしていたらしいのです。そこで、この先生の講義を聴いたことにしました。大学紛争中とのことなので、講義があったかどうかは疑問ですが、まったくありえないはなしではないということで、ご理解下さい。
十二国の二次小説に蓬莱を持ち込むのはあまりよくないとは思うのですが、そのへんもご勘弁下さい。