それは、突然にやってきた。本当に唐突な出来事だった。
壁から文が来たおよそ十日後、雲海を超え、陽子が執務をしている正寝までいきなり飛んできたものがいたのだ。
その体は黒光りする銀色で、背中は不思議な光沢を持っていた。
馬のようだが馬ではない。
漆黒の鬣を長く風になびかせ、正寝の庭に音も無く降り立った。
時は夕刻、すでに夕餉も過ぎ、陽子は夜の執務中であった。
「中嶋さん?」
声が聞こえる。
陽子は耳を疑った。
陽子のことを「陽子」と呼ぶものは限られている。まして、「中嶋さん」などと呼ぶのはひとりだけだ。
戴国の黒麒麟、泰麒こと泰台輔。高里 要そのひとである。
正寝の窓からのぞくと、信じられないほど美しい黒麒麟の姿があった。
陽子は転変した泰麒の姿を見たのは初めてだった。
景麒の転変した姿も、神々しくて美しいが、泰麒のその姿は、まがまがしいものすべてを吹き飛ばすほどの強さを秘めた鋼色であった。
窓からのぞいたまま、目を見開いて、陽子は、
「高里君、なんて綺麗なんだ・・・。」
そういったまま、絶句してしまった。
麒麟のままの、泰麒は苦笑すると、
「そうですか?」
そういって、陽子のほうに体を向けた。
「あれ、何を持ってきたの?」
泰麒は口に何かくわえていたのだ。
「これを、貴方に。主上もご存知です。主上の許しはきちんと得ていますから、心配しないで。」
そう言って、窓の下に何か置くと、また、その身を翻して、北の方へ飛び去っていった。
陽子はあわてて、外に出て、何かを確認した。
小さな鉢植えであった。
昔懐かしい、蓬莱のスーパー袋に入っていた。
そのもち手を咥えて、泰麒は飛んできたようだ。
そこには、黒っぽい独特の肌をした小さな木が植わっていた。その枝にはは、いくつかのつぼみがついていた。
うすい、ピンクのつぼみ・・・。
「これは、さくら? もしかして・・ソメイヨシノ??」
陽子は、なぜだかわからないが、涙がじわりと染み出てくるのを感じた。
悲しいことなんか何もない、なぜ?うれしいから??
ああ、そうだね、きっと切ないからだ・・。
しばらく陽子は、流れる涙に心を任せ、その場に立ち尽くしていた。
ふわりと、薄い上着が陽子の肩にかけられた。
「まだ、この時間はお寒うございますよ。」
浩瀚だった。
禁軍から知らせがあったのだ。
なにか、雲海の上から正寝に降りたものがある。
慶国の誇る禁軍の情報網だった。
黒い影であったが、災いをもたらすような気は感じられず、かといっていつもの雁国の台輔のような明るい色ではなかったというので、浩瀚は報告を受けてすぐに、正寝の方へ様子を確かめるために足を運び、目通りを願ったのだ。
もちろん、正寝に断りなく入ることのできる権限は今も健在だったが、あいかわらず、浩瀚はその特権をよほどのことが無ければ使うことをしなかった。
「お体が冷えてしまわれます。」
「ああ、浩瀚。わざわざすまないな。」
「さあ、鉢は私がお持ちいたしますので、中へはいりましょう。」
「うん、わかった。でも、鉢は私が持っていくよ。」
小さな苗木だったが、根は割合としっかり張っているらしい。よく見ると、手紙がはさんであった。
「あれ?高里君からかな。」
陽子は、正寝の部屋にはいってから、常世の厚ぼったい封書とは異なる、昔懐かしい蓬莱の封筒を見つけたのだ。
浩瀚は、不思議な顔をしている。そんなものを見たことがないからだ。
陽子が手紙といったので、おそらくそうなのだろうとは思ったが、「紙」の質感がまったく異なるので、訝しく思っていた。
袋の口を破いて、陽子は中身を取り出した。桜色の綺麗な便箋に、几帳面な文字が、並んでいた。
鉛筆だ。
そこには、陽子宛に泰麒からの説明がつづられていた。
日本語で。
陽子は、浩瀚にも聞いてもらおうと、音読を始めた。
* * * * * * * * * * * * *
中嶋さん、ご無沙汰しております。
その節は、本当にありがとうございました。
失礼とは存じますが、説明がはなはだ複雑になってしまい、僕の知識では常世の言葉で表現できません。そこで、私信という形をとらせていただきます。
何日か前、延台輔が突然尋ねてまいられました。
景王が桜を探している、蓬莱のソメイヨシノという桜だと。
その桜は、種ができないため、接木や挿し木など人の手を介さないと増えないので、里木に願っても得られないとのこと。
そこで、僕が知っているなら一緒に蓬莱へ行ってとってこないか、と誘われました。
聞けば、延台輔も延王も、蓬莱にいた時代にはなかった種類だとか。わからないから、とおっしゃっておいででした。
僕は、逆に桜といえばソメイヨシノしか知らないのです。
蓬莱にいたころは、花が咲いても実がならないのが桜だと思っていました。
ですから、僕もお役には立てないと、お答えいたしました。
延台輔は、
「そうだよな・・簡単に事が運ぶとは思っていなかったし、戴国もまだおちつかねえもんな。悪かった、邪魔したな。」
そんな風におっしゃって、瞬く間に雁国の方へお帰りになりました。
それを知った主上が、行って人に聞けばわかるのではないか、とおっしゃるのです。
とりあえず、行ってみろと。
ちょうど満月だ、たまには蓬莱へ行って遊んで来い、ともおっしゃいました。
実は、延台輔から、壁老師の文を見せていただいたのです。
その文によると、壁老師は東大の学生でいらしたとか・・。
その大学で、遺伝学の講義を受けられたと、文には書かれていました。
とりあえず、情報はそれだけでしたが、僕は、そのあとに、満月の影を渡り、蓬莱へ行ってみました。
東大のキャンバスへ行ってみたのです。
有名な場所ですから、しばらくぶりでもそれほど迷うことはありませんでした。
そこで、遺伝研究室の方へ半ば強引に訪ねさせていただきました。
(強引といっても、危ないことはしていませんからご心配なく。熱心な学生のふりをしただけです。)
そこの職員の方が、ソメイヨシノならば三島の遺伝学研究所で詳しく調べられている、桜もたくさんの種類があるので行ってみるとよい、といわれました。
新幹線に乗るのも面倒なので、三島までは転変していきました。
人目を忍んで服を着るのが大変でしたけど。
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ここまで読んで、陽子は明るく笑った。浩瀚も、目を細め、その口を官服の袖で押さえている。
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東大の職員の方が紹介状を書いてくれたので、簡単に中に入れてもらえたんです。
今から思えば、あの人、偉い教授さんだったのかもしれませんね。
この小さな植木鉢は、そこで頂いたものです。正真正銘、ソメイヨシノだ、とそこの職員の方は笑っていました。
花が終わって葉が出てきたら、しばらくこの地になじむように育ててみてください。寒くなってから、接木や挿し木で増やせるそうです。
うまく行くといいですね。
ついでといっては何ですが、遺伝学研究所の方がおっしゃっていました。
日本で現在見られる桜は、ほとんどが園芸種で、実がならないのだそうです。
僕は、実らない桜はみんなソメイヨシノだと思っていたので、研究所の方の説明はとても参考になりました。
中嶋さんにそっくりな、赤っぽい華やかな桜も見せてもらいましたよ。
なんと「陽光」っていうんです。本当に中嶋さんみたいに、あでやかな桜でした。
それでは、美しい桜と、美しい慶東国国主に、永遠の幸がありますように。
心からお祈りいたします。
高里 要
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読み終わった陽子は、黙ってしまった。
浩瀚は、そんな陽子をそっと見つめていた。
「浩瀚?」
「はい。」
「私は、悪い国王だろうか?」
「なぜでございますか?」
「他国の麒麟にまで迷惑をかけている。」
ふう、と浩瀚は小さなため息をついた。
「迷惑」だと感じられているようには、先ほどの文からは聞き取れませんでしたが、そうお伝えしても、今はご理解いただけないかもしれませんね。
そう思った浩瀚は、
「桜が知っているのではございませんか?」
と、問いかけた。
「え?さくら・・。」
「はい、その桜をわが国で大切に育てて、主上が夢見てやまなかった、ソメイヨシノという桜が満開になりましたら、皆様を御呼びなさいませ。そのときに、主上のお考えが迷惑であるかどうかわかるのでは?」
陽子は、少し考えた。
「うん、そうだね。私はともかく、桜に罪はないさ。それにしても、種ができずに人の手を介して増えていったとしたら、ものすごくたくさんの人がこの桜に関わったということだよ。私が蓬莱にいたころは、高里君も書いてきたけれど、桜といえばソメイヨシノだったんだから。多くの人に愛されて、多くの人が努力したんだろうな、この桜のために。」
「左様でございますね。」
二人は、そのまましばらく、ソメイヨシノの小さな鉢植えを、二人で並んで見つめていたのだ。
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驍宗のところに、尚隆から鸞が届いていて、すでに驍宗は事情がわかっているという前提なのですが、延麒が戴国に着くのと、鸞が戴国に着くのとどちらが早いかといわれると、裏を取っておりませんので、齟齬が生じているかもしれません。
壁落人と同じように、泰麒も蓬莱の言葉で手紙を書いています。
常世に無いことを文にするのは、難しいと思いまして、しつこいですがそうしました。
蓬莱と常世の生物が交じり合うのは、本来ならば難しいような気がするのですが、景王が望んでいるということで、ご勘弁下さい。
言い訳が多くてすみません。